ネットからの情報をもとにして構成する、己の欲求を満たす為の悲しい作業の記録      2次情報確証バイアスブログ。

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ストレスから開放される? 断捨離も良いけれどそこに想いを馳せることもあるのではないでしょうか

 文中において断捨離という言葉を使用しておりますが

本来の意味合いとは違う使い方だと思うのでお片付けと脳内変換の上

読まれることを願います。

 

 

          もくじ

断捨離は単なる手段であると思う

まずはじめに第1歩として身の回りの整理をするためには、

断捨離するところから始まるのが当たり前だと思います。

 

そこに理由は色々あるはずです。

とりあえずはモノの片付けから、モノを減らすところからと考えるのであれば

断捨離と言うことになるはずです。

 

身の回りの整理、そしてモノを減らす、とりあえずの目的は達成されました。

邪魔になっていたモノがない、スッキリとした空間を得ると同時に

気持ちの余裕をも手にしたと言えるのではないでしょうか。

 

           f:id:nico_sekiguchi:20170819161358p:plain

 

断捨離することでストレスから開放される 

ラッシュで込み合う車内から、

ゆったりとひとり網棚へシートに座れる感覚にも似た気持ちの余裕ですよ。

 

でもね、ストレスからの開放に浸っているも

やがて変化したその環境のなかで気づくこともあると思います。

 

人波にもまれ身動きが取れない車内ではあっても

周りをおねいさんに囲まれ なにかそこにその状況を感じさせない想いが

あったことに気づいたとしたなら、

とりあえずの開放感から一歩進んで、もしくは違う角度から見直すことで

それが自分を見つめ直すキッカケにもなるはず。いや、かもしれない。

 

物を片付けるキッカケはなんであれ、片付け作業をしながらでも

そしてその作業の終わった後からでも

何かしらの想いがそこには有ると私は思うわけですよ。

 これまでの生活とこれからの生活、そしてモノに対する想い

 片づけを思い立ったからとは言えですよ、

何でもかんでもそのまま、ただ単に捨て去さることができる、

ノールックでバンバンごみ箱へシュートできるひとは今まで何をしていたんだと。

その才能をなぜ今まで隠していたのか。

隠れたるスーパールーキーじゃないですか無駄に。

 

そんなに執着がないものを置いていたのか、

無駄だとこれまで気づくことは無かったのか、のん気か。

有り余る富をもてあましている富豪かあんたは。

物欲、所有欲、買い物欲、消費者の神か悪魔か。

ジャパネットの常連か。

・・・QVC・・三越テレビショッ

まあ、たとえ 密林の王者であったとしても俺には関係ないし。

 

強い意志がそこにあるのは解りました。

まずスッキリさせてそれからですよ。

 

そりゃそうですよだってそうだモノ。

 

まずはこの燃え上がるリビドーをどげんかせんといかん。つってね。

           f:id:nico_sekiguchi:20170819154724p:plain

んんーと・・

今までは

可愛らしい二足歩行の動物たちが歌い踊り、

そして、そびえ立つ白亜の城上空の夜空を彩る

煌びやかな幻想的な輝きの中にいたはずなのに

 

 そんな世界の中に暮らしていたはずなのに

 

ある日突然、目の前に現れた光景。

それはそびえ立つ白亜の城では無く、今や誰も住まない

ましてやそれはお城でもなんでもない

ブルーシートとダンボールで出来たある意味では俺の城だが

実は不法占拠物件であったと。

 

そんなものは要らないから憩いの場を返せ、強制撤去いたします

そこに異議の申し立ては聞き入れられません。

一切合切処分いたします。

 

一夜にして価値観の暴落が起こることもあるわけですが、ちょっと待ってクダサイ。

今目の前にあるのは今や不法占拠物件にしか見えないかも知れないが

かつてはそこに色んな想いがあったんじゃないのかと。

そして築き上げた俺のノイシュヴァンシュタインじゃなかったのか。

          f:id:nico_sekiguchi:20170819161020p:plainなごや

すべてを処分することが断捨離ではないはずです

過去を反省、今の生活からの脱却、

大量そして無駄な消費を抑えて生活の効率化のためなんだからと

そこに固い意思をお持ちなのはお察しいたします。

 

しかしながら私はこうも考える訳です。

 

ひとつひとつのモノに想いを馳せるとか

反省するとかではなくても、

そのモノについて想う事、

そのモノから想う事はあると思うわけです。

 なんか矛盾している気もしますが。

 

ストレスの原因の一部になってしまったモノであろうとも、

そのモノを通して今までの生活の反省材料や

そしてこれからの生活を考える上での糧になるのではないかと思います。

 

未練やもったいないと言う考えを起こさないためにも

とにかくきれいさっぱり片付けたいのだから、いちいち見直しなんかしたくない。

それが無駄なんだよと思われるかもしれません。

 

モノが無くなりスッキリしたことで見えてくることも有るとは思いますが

それ以前の片付けの作業の中でもヒントとなることがあるのではと考えています。

 

 

こちらのブログに興味深い内容があったのでご紹介します。

idel-realization.jp 

今思えば全ての思い出を灰にする必要はなかったのではないか。

それが僕にとっての今でも残っている後悔です。

中略

自分の心に深く感じられる何かがあるのなら、

 たとえガラクタであったとしても残しておくことです。

中略

失ったものはもう元には戻りませんが、

これから手に入るものは大事にする。

 俺は未練の塊なのか、断捨離バンバンも良いけれど想いを馳せることもある

すべてを処分すると言うのは極端な例ですが

俺は過去は振り返らない、かっこいいっすねえ。

モノでは幸せにはなれないのよ、確かにその通りでやんす。

それぞれの考えに随えばいいんですよ。

 

デジタル化することで場所を取ることなく管理することができるものは

それでもいいと思います。

形にならない思い出や記憶は自分の中に持っていればいいことです。

でもそれを感じるきっかけとなるものが手元にあってもいいんじゃないのかと思いました。

片付けの作業中でも何も考えて無いことは無い筈ですから、

手にしたモノになにか感じるところがあったのならちょっとだけ見つめ直すことも

無駄ではないと考えます。

 

その結果で捨てる、捨てないは自由だし 

この先ブレない生活を送る覚悟にもなるのではないでしょうか。

 

 こちらも読んで下さいまし。

 

www.nico-sekiguchi.tokyo

 

 

このガラスの靴も

俺のノイシュヴァンシュタインの記憶として

 

そして
クロコップ にんじゃりばんばん

 

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